どうも、「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。
前回、「iNaturalist」っていうアプリの話をしました。
これ、研究室の先生に紹介したら、その先生が他の学生にも広めてくれて、
今ではみんなで楽しんでいます。
先生も「これなら学生実験とかで、植物の分布を調べるのに使いたいな」と。
私も着々と観察記録を増やしておりますよ。
この時期はキノコの種類が豊富で楽しいですね!
信州に来て、はや三週間。
私が住む南箕輪村は天竜川流域にあり、一帯は伊那谷と呼ばれます。
日本を代表する二つの山脈が、屏風のように東西から谷を挟んでいます。
天竜川とその支流が大地を削り、河岸段丘ができています。
信州大学農学部のある河岸段丘の上は火山灰性の黒い土で、畑や果樹園が多い。
一方、河岸段丘の下の土壌は、山から運ばれてきた白っぽい土で、コメづくりが盛ん。
さらに、この辺りは養蚕や製糸業を昔からやっている。
明治の頃、伊那谷の糸は甲州街道を通って横浜へ、中山道を通って上州富岡へ運ばれたそうです。
古くは交通の要衝でもあり、馬を多く飼っていたこともあり、
今も馬肉が街中のお肉屋さんに普通に売られています。
かつては貴重なタンパク源だったでしょうね。
タンパク源と言えば、忘れちゃいけないのはムシたち。
農産物の直売所に行けば、豊富な野菜やキノコ類に交じって、
イナゴ、ザザムシ、ハチの子、カイコの蛹・・・
ごく当たり前に置いてあります。
正直、これまであまり印象が無かった地域だけど、ここは地域としてキャラが立ってます。
これからさらに探検を続けていきたいと思います。
信州は日本を代表する山々に抱かれた地域。
川が幾筋も流れ、谷を作ります。
この谷どうしが地図上では大した距離に見えなくても、
山を隔てたとなりの谷は、時間的、心理的にはずっと遠かったりするわけで。
谷ごとに、独自の景観と歴史を持っている。
一度、高速代をケチって、伊那から木曾、飛騨を抜けて福井に帰ったことがあります。
(高速なら中央道から名神経由で行くのが早いです)
日本の屋根を越えていくわけですから、たくさんの峠やトンネルを抜けなくてはならないのですが、
そのたびに、狭い谷とそこに身を寄せ合うようにして営まれる集落を目にするのです。
しぶきを上げて流れる川、風に揺れる白い蕎麦の花、両側から迫りくるような山々。
「木曽路は全て山の中」でございましたよ、藤村先生。
谷をすみかにする、というのはなかなか合理的です。
集落の周りでは田畑を営み、背後の山からは燃料や、道具づくりの材料を得る。
水も引きやすいし、川を使って下流に物を運ぶこともできる。
水の流れを動力源にすることもできる。
二方もしくは三方に山があるため、外敵にしてみれば攻めにくい。
日照時間が短いのと、周囲の山々に降った雨が一本の川に集中するので水害が起きやすいのは、ツラいですが。
ひとつの谷は、贅沢はできないにせよ生活に必要なものを自給できるため、それだけでひとつの社会を構成しうる。
そして時に、谷を起点に新たな勢力が勃興することさえあります。
実際、源義仲は木曾の谷から天下を窺いましたし、越前の朝倉家は一乗谷の城下町を繁栄させ、時の将軍をも迎えました。
日本人の生活文化を知る上で、「谷」をひとつの単位として見るというのは、そうした歴史的事実から考えると、案外的を得ているように思うのです。
谷でどんな資源が得られ、逆にどんな資源は外部からの移入に頼らねばならないか。
これが、谷の生活様式の根本を決める要因となります。
そこに、気候変動や交通の発達、税制の変遷などの要因が加わって、谷の歴史が作られていくのではないでしょうか。
例えば、私が福井にいた頃お世話になっていた越前町の「熊谷」地区はどうか。
熊谷のある旧宮崎村は、千年以上前から焼きものを作っています。いわゆる越前焼です。
かつては熊谷でも作られていましたが、これまでの調査から時代によって産地が少しずつ移動してきたことが分かっています。
熊谷集落から少し山道を登ったところに、地元の人たちが「古熊谷」と呼ぶ谷があります。
今は谷全体が田んぼになっていますが、ここにかつて集落があり、中世には焼きものの一大産地になっていました。
実際、山の斜面を利用した登り窯の痕跡が幾つも発見されています。
焼きものをやるのにどうしても必要な資源は、陶土と燃料です。
これらは両方とも周辺の山々から得られたはずです。
ところが、室町時代ごろに産地は少し離れた別の場所に移っているらしい。
では、なぜこの地で焼かれなくなったのか。
陶土が手に入りにくくなったのか。
燃料となる木を採り過ぎてしまい、林の回復が追いつかなくなったのか。
それとも、別の場所により生産効率の良い窯ができ、そちらに移っていったのか。
越前焼自体の需要が減少した・・・わけでは無さそうです。この地域の焼きものづくりはちょっと離れたところで続いてはいるので。
そうなると、やはり資源の枯渇か、生産手段の変化が原因でしょうか。
そして今。
熊谷集落も例に漏れず、人口減少と高齢化が進んでいます。
しかし一方で、別の集落に住む若手のコメ農家が古熊谷の田んぼでコメづくりをしたり、
フィールド調査の為に京都から学生さんたちが来たり、
生きもの観察会や音楽イベントをやったり。
集落の住民と外部の人間が、これまでになく活発に交流しています。
谷がこれほど外の世界と繋がりを持つ時代は、いまだかつてありませんでした。
交通や通信の発達で、人は出ていきやすくもなるし、来やすくもなる。
その中で、谷の資源や環境について、これまで知らなかったこと、意識してこなかったことに気がつくはずです。
そうした気づきを蓄積・共有していけば、新たな集落の姿が立ち現われてくるのではないでしょうか。
越前の、信州の、日本の谷は、どこへ向かっているのか。
彼らがどんな資源を持ち、どんな生活を営み、周辺の地域とどう付き合っているか。
そんな視点で、谷の、地域のいまを、その行く末を、見ていきたいと思います。