表現することを侮るようなやり方は、やがて社会に致命的な停滞をもたらす。

どうも、「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。

 

 

1月27日(土)、京都外国語大学国際文化資料館の南博史先生の講義に参加し、学芸員を目指す学生さんたちの前で話をする機会がありました。

雑草を研究している私が外大で何を?と思われるでしょう。

南先生や外大の学生さんたちは以前から福井県越前町で「フィールドミュージアム活動」と銘打って、

自然環境・歴史・生活文化などの地域資源の調査・研究を行ってきました。

私も大学を出て福井で就職して間もなく、この活動に加わることになり、生き物観察会や植生調査、田植えイベントなどに関わっていたので、

今回、こうした活動の中で私が考えた事をお話しする機会をいただいたのです。

 

 

思い起こせば初めのうちは、何となく面白そうだから顔出してただけでした。

でも、何となく参加していてもこれといって役には立たないし、いまひとつモチベーションも湧かない。

やはり何かテーマを持って、注意して見るようにしないと、と思いました。

そこで私がテーマに設定したのが、「山間地の田んぼの植生調査」でした。

もともと農学部出身で会社の仕事でも植生に関することをやっていたので、植物に関する知識は多少あった。

加えて、地域の自然環境や生活文化にとって身近な植物は重要な存在だし、

地域の植生の傾向や動態がつかめれば、農家の除草作業を効率化できるかもしれない。

そんな考えで、仕事の傍ら土日の時間を使って調査を行いました。

 

見ていくと大体は分かるんだけど、やはり分からない種類もあって、そのたびに調べる。

まさに「トルネコの大冒険」で正体のわからないアイテムを一個一個調べていくような感じですね。

そんな中から、かつて薬草や染物の材料として使われていたものや、遺伝資源として価値があるもの、

昔は普通に見られたけど最近ではなかなかお目にかかれなくなっているものなど、

パッと見はなんてことない田んぼのあぜ道で、多くの発見を得られました。

 

で、やはり調べたからにはその地域の人たちに報告しよう、となるわけです。

ヨソ者がふらっとやってきて、その辺をうろうろ見てまわって何も残していかないんじゃ、ただの不審者ですから。

調査の結果は地域の行事の中で時間をもらって発表させてもらったし、

田植えイベントの際には田んぼ周辺で採れた草で野草茶を作って振る舞ったりしました。

すると地域の方から、こんな反応が返ってきました。

「こんなに種類があるのか。知らなかった」

「見たことはあったが、名前や用途は知らなかった」

「昔は庭に生えたのを刈り取って実際に使っていた。懐かしい」

「他にも食べられる野草とかがあるなら知りたい」

私としてはちょっとした情報を提供したに過ぎないのですが、皆さん興味を持ってくれたようだったし、

更に新しい情報も得られて、発表すること自体も得るものが多かったですね。

 

 

ローマの指導者カエサルは、著書『ガリア戦記』の中にこんな言葉を残しています。

「人は自分の望みを勝手に信じてしまう」

人間は見たものを写真のようにそのまま写し取ることはできなくて、

認識するものには必ず、興味とか願望とか先入観とかいったフィルターがかかっている。

そしてそれらのフィルターは人によって違う。

同じ景色を見て、同じ経験をしても、そこから何を発見するかは人それぞれです。

 

だからこそ、自分がフィールドにおいて知りえたことや考えたことを、伝えたり表現したりするのには大きな価値がある。

もちろん、表現した内容について異論や反発が生じることはあり得ますが、

それを恐れているだけでは何も始まりません。

むしろそうした中でより整理されたり新しい視点が加わったりすることで、フィールドで得られた認識はより洗練され、一般化されていきます。

 

もうひとつ、

このところ、年下の学生からレポートやらエントリーシートやらの作り方を聞かれることが時々あります。

彼らの中で熱心な者はえてして、新しく本や論文を読んだり、新しいことを始めたりして見聞を広めようとします。

(私は学生時代、不安のあまりこれをやり過ぎて潰れました)

そうしたことは長期的には重要だけど、新しく得た情報や経験がこなれてくるには時間がかかる。

だからこそ、レポートとかエントリーシートとかそんな大仰なものにする前に、

まずは現状を整理して、手の届く範囲の人に表現してみる。

少しずつ小出しに表現していくことで、自分の経験を反芻したり、整理したりできるのではないでしょうか。

 

 

今回講義したことで、私の認識もまた整理された気がします。

伝え方はまだまだ未熟でしたが、とりあえずは表現してみるものですね。