仏像と堕落

最近、高遠で石仏を見る機会が多かったので、その中で思ったこと。

 

仏像の歴史をたどってみれば、インドで誕生した初期の仏教では仏像を拝んだりしてなかった。

それがガンダーラギリシャの彫刻文化に触れたことで、

「やっぱ像にした方がパッと見でわかりやすくね?」ということでせっせと作り始めた。

それまでの仏教者からすれば、「不敬」や「堕落」と映ったでしょう。

 

「最近の若いもんは」というセリフは、古代からあったそうです。

自分たちがやってきたやり方と違えば、それは「改悪」や「堕落」と映る。

論文読んでて知らない単語をネットで検索するようになれば、「最近の学生は辞書を引かなくなった」と嘆く。

撮った写真を判別して生きものの種類がわかるアプリを使えば、「図鑑で調べなくなる」と眉をひそめる。

大学の講義やゼミ中にわからないことをスマホで調べていると「講義中にスマホを触るな」とか言い出す。

(学生も学生で、研究室ではスマホでLINEとYouTubeばっか見てる奴が、

 ゼミになると急にかしこまってスマホもパソコンも使わなくなる。驚くほど律儀だ)

 

そんな人に言いたいことはあるが、言ってもあんま意味無いんですよねー。

地動説がメジャーになったのは、地動説論者が天動説論者を論破したからではなく、

単に天動説を信奉する古い世代が死んだから、ということらしい。

常識が変わるためには、人そのものが入れ替わらなきゃいけない。

既成事実を作ってそれを当たり前と捉える層を増やしていけば、

時期が来てその層が主流になった時に自然とパラダイムシフトは起きるんだと思います。