萌虫すごいぜ!

ある昆虫マニアの学生が,こんな話をしてくれました.

日本甲虫学会の学会誌「さやばね」は,毎号甲虫の細密な図が表紙を飾っているのだが,最近なんだか毛色が違ってきたとのこと.

どんなイラストなのか,以下の学会のサイトで確認してみてください.

 

http://kochugakkai.sakura.ne.jp/publication/sayabane/sayabane-bibliography.html

 

第34号以降,甲虫がょぅι゛ょキャラ化しています.

新しい編集委員の趣味らしいのですが,会員の中で賛否が分かれ,中には憤慨している古参の会員もいるそうです.

まあ,ヨソの学会の内輪の話には,興味ないんですけどね・・・

 

が! 私は確信したッ!

「キャラ化」は日本の伝統芸だッッッ!

 

私の父は高校で国語を教えていましたが,

その父の学校で使っていた古文の教科書の表紙が「百鬼夜行絵巻」でした.

私はその絵を一目見て「ポケモンや!」と思いました.

日常の様々な道具に目鼻がついて手足が生えて,奇怪だけどどこか可愛げのあるキャラクターに仕上がっている.

谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』にもあるように,日本人には新しく清潔なものよりも時間が経って手垢がついたりくたびれたりしたものを好む傾向があります.

 

ひとつひとつの事物に強い愛着を持ち,時として人格のようなものさえも認める感覚.

八百万の神」とか「一木一草にも仏性あり」といった,ある種の汎神論的な世界観がその根底にあるのかもしれません.

「キャラ化」は愛のなせる業.その魅力を端的に伝えるための手段と言えるでしょう.

 

日本人はこれを昔から行ってきました.

古くは『源氏物語』や『平家物語』の登場人物を能や歌舞伎の舞台で演出し「キャラ化」しているわけです.

その「キャラ化」において重要なのが「記号」です.元ネタの特徴を,さりげなく造形の中に盛り込むのです.

例えば,能「清経」の主人公,平清経の衣装を見てみましょう.

 

(参考URL) http://www.nohgaku.or.jp/performance/h23_osaka.html

 

清盛の孫にあたる平家の貴公子で横笛の名手として知られましたが,

平家軍が敗北を重ねるなか絶望し,極楽往生を願って豊前国で入水し,二十一歳でその生涯を閉じました.

舞台では,死後に霊として妻の前に現れ,成仏できずに苦しむが,最後は念仏によって救われる,というストーリーが展開されます.

この演目で清経役の役者が着ける袴には,波の模様がデザインされていることがあります.

都から遠い西の海の中から霊となって妻の元に帰ってきた,清経の悲劇的な境遇が端的に表れています.

能の舞台は舞台装置を極限まで排したミニマルな空間なのですが,

面や装束でそのキャラクターの背景や内面を表すことに成功しているのです.

 

そして今,日本人のキャラ化の矛先は,思わぬ方向へ・・・

「刀剣」「戦艦」「細胞」など,あらゆるモノが擬人化されて大人気.

これらのキャラクター造形にも,元ネタに結びつく記号がふんだんに盛り込まれています.

最近は「仏様」をイケメンキャラ化したゲームまで登場し・・・

今年の春に高遠で「石仏総選挙」をやった身としては,何だか嬉しいですわあ.

 

ありとあらゆる分野のヲタクたちよ.案ずるな,胸を張れ!

なかなか理解されないニッチな好みでも,伝え方はあるものだ!

ストーリーに,キャラクターに,渾身の愛を込めるのだあああああああッ!!!

 

伊藤計劃没後10年: モデルと物語

今年は作家・伊藤計劃の没後10年の節目です.

デビューしてわずか2年,34歳の若さでした.

 

前回の記事で引用した『屍者の帝国』は,伊藤計劃の絶筆を円城塔が書き継いだものです.

これも含めて,伊藤計劃が作家としての短いキャリアの中で遺した作品は,

それまでの体制や秩序の盲点を突く,という内容が多いです.

既存のモデルが否定されたとき,人は新しいモデルを選びとれるか,それともただ混沌や虚無に呑み込まれるしかないのか.

一貫して一元描写で語られる物語の主人公や周囲の人物たちは,困惑し,苦悶し,絶望し,決意し,行動します.

その物語は,寒気がするようなリアルさを持っています.

 

ところで,イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で,

人類史には3つの大きな革命があった,と指摘しています.

「認知革命」と「農業革命」と「科学革命」です.

このうちの「認知革命」は,人類に「物語を語る力」を与えました.

人類の特徴としてしばしば言語が挙げられますが,

人類以外の動物でも言語によって情報伝達を行い,それによって集団の生存率を高めているものがあります.

では,人類の言語の特徴とは何か,というと,「虚構を語ること」が可能になっているのです.

人類は「実体のないものを認知すること」ができます.

神もそうです.会社もそうです.市場もそうです.法律もそうです.貨幣もそうです.

これらに実体はありません.

赤信号みんなで渡れば怖くない」的にみんなで一斉に否定すれば,明日にでも無くなってしまうものばかりです.

実際,札束や株券は数時間でただの紙切れになることがあるし(株券はもう電子化されてるけど),それによって多くの人が食うのに困ったり首を括ったりするのです.

 

神という物語に固執する人たちは,それとは異なるモデルを提示した人たちを異端者として非難しました.

ガリレオダーウィンといった人たちも,教義に反しているとして追及を受けました.

ハラリは,500年前の「科学革命」は人類が自らの無知を積極的に認めるところから始まった,としています.

既存の物語を根本から見直し,経験とデータに基づいてモデルを構築し直すことを始めたら,これまでにない理解や応用が可能になった.

デカルトの方法的懐疑は,その最たる例です.

このことが後の「産業革命」にも繋がっていきます.

 

今日,科学というモデル体系はますますその領分を広げ,人間の認知や心理にまで及ぼうとしています.

かく言う私も,研究の中で機械学習を使うことがある.

シンプルなアルゴリズムなら理解できるのですが,変数が増えたりして複雑になると理解が追いつかない.

ブラックボックスと言ってもいいモデルが出来上がってしまう.

かつてこのブログで紹介した中谷宇吉郎の随筆『茶碗の曲線』に出てくる,彼の弟が果たせなかった土器の分類モデルの構築も,

3Dスキャナーとそこそこ速いコンピューターがあれば,案外できちゃうんじゃないか・・・そんな気がします.

 

それでも人は,既存のモデルが扱いきれないものを様々な物語で語ることができる.

なればこそ,詩を詠む心も茶碗を愛惜する心も,無くなったりはしないでしょう.

人が謙虚に無知を認め,五感を皿のようにして,想像力を膨らませる限り.

 

うーん,ちょっと考えすぎかな.

でも,歴史を学べば学ぶほど,今の社会が拠って立つところのモデルが崩れ去ったとき,

社会が,自分がどうなってしまうのか,という疑問が湧いてくるんですよね.

もちろん答えなんてないし,その時が来たら自分の力だけではどうにもならない部分も多いだろうし.

歴史が教えてくれるのは,人の「物語を生み出す力の偉大さ」なのかも知れません.

残差の中に物語を求めて

どうも、「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。

 

ただ今、階層ベイズモデルにどっぷり浸かっています。

ある変数を説明する変数を、また別の変数で説明し・・・というように階層的にモデル式を立てることで、

ものすごく柔軟にモデルを作ることができます。

統計ソフト「R」とベイズモデリングに便利な「Stan」の組み合わせが強力で、

これまで教科書や論文で読んだり、自ら考えたりしたモデルをいくつも組み合わせることで、

ドローンで得た群落の面的情報から、植物の生育に関するパラメータを時期ごとに推定できそうです。

去年のデータやダミーのデータを使って、モデルを絶賛改良中です。

 

計算機の発達で、モデリングやシミュレーションはみるみる高度になっていきます。

モデルが洗練されるほど、より現実に近いシミュレーションができる。

シミュレーションの大切さは古くは『孫子』でも強調されていて、

「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」というように、実行前に勝算を得ておく必要性を説いています。

シミュレーションによって勝敗が分かっているなら、あえて実戦を行って犠牲を出すのは愚かしいことのように思えます。

 

ですが、戦争の勝敗も植物の生育も、計りきれない部分が必ず残ります。

天候の変化や情報伝達の齟齬、流言飛語による士気の動揺などは予測が難しい。

クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、こうした要素を「戦場の摩擦」と呼んでいます。

これらの一部は、気象観測やGPS、通信記録解析などの発達で解消されたと言えるでしょう。

それでも、戦闘の勝敗を完璧に予測することなど、今もって夢のまた夢です。

 

でもモデル屋はそこで絶望しません。これこそ、モデルが進化する好機です。

もしかして、モデルに組み込めていない何らかの要素が、実は大きく影響しているのではないか?

残差の中に、何が潜んでいるのか?

改めてデータに目を凝らし、文献を漁り、現場に足繁く通って、見逃している要素を探す。

そして再度モデリングを行い、変数を絞り込んでいく。

モデルは人智の結晶なのです。

 

一方で人は、どんなにモデリングを発達させても、やはりそれを実行して確かめたいと望むでしょう。

仮に予想とほとんど変わらない、順当な結果に終わったとしても。

そこに残差が、摩擦があって、それが時として結果に重大な影響を及ぼすことを人は歴史と経験から知っている。

残差に潜む、未知の変数こそが、人を掻き立てる物語の源泉なのでしょうか。

 

諸葛孔明赤壁の戦いに臨んで、土地の漁師を雇って天候についての情報を得、会戦当日の風向きを予想して火攻めの計画を立てたといいます。

敵にとっては戦場の摩擦でしかなかった天候を、孔明はしっかりと勝利のモデル式に組み込んでいた。

その上で孔明は風を呼ぶ儀式を行い、超自然的なものが自軍に味方したかのように演出しました。

物語の力で精神的にも優位に立ち、戦局をさらに有利にしたのです。

神話の語り部も歴代の文豪たちも、まだ定式化できていない要素から物語を紡いでいるのではないか。

 

モデル屋として、一人の人間として、計りきれない残差と向き合うことが、

人生をより豊かにしてくれそうな気がしています。

新しい仏教体験?

母の実家がお寺だったこと、そもそも信仰の篤い越前に生まれたこと。

私にとって仏教は身近なものでした。

 

お堂の真ん中が囲ってあって、天井からキンキラキンの飾りが下がってて、奥にご本尊があって、

今は亡き祖父がむにゃむにゃとお経を上げている。それを檀家さんが頭を垂れて聴いている。

お経の内容なんてさっぱり分からなかったけど、子供心に不思議な空間だと思いました。

 

大人になって、桑田佳祐のライブに行って「銀河の星屑」という曲を聴いた時、

ステージの演出を観て「法要ってライブだったんだ」と直感しました。

ロックスターはみんなを代表してお経を上げるお坊さんで、日常とは異なる空間を演出しながら、

人生で大事なことを語りかけたり、何かに祈ったりする。

だったら、逆にライブの演出とかを法要に取り入れても良いんじゃないか・・・

 

そうこうしてたら、越前のあるお寺で「テクノ法要」なるものが始まったと聞き、

ネットで動画を探して観たのですが、これにはたまげました。

プロジェクションマッピングを使い、テクノミュージックに乗せてお経を上げる。

お堂の中で「法要×ライブ」という図式ができていたのです。

このお寺の住職はPerfumeのライブを観た時に着想を得たと言っていました。

確かに「Dream Land」という曲などは、歌詞といい曲調といい現代版の「阿弥陀経」かもしれません。

 

あと、お寺ってお堂といい境内といい、ちょっとした集まりをやるには丁度いい広さのような気がするんです。

実際、私の地元の武生では、お寺でコンサートやハッカソンをやっているところがありました。

城下町あるあるとして、町外れにお寺がいくつも並んでいて「寺町」なんて呼ばれている一角があったりしますが、

一国一城令のせいで表立って新たな城を作れない各藩が、寺を出城代わりにしていざとなったら兵を配置できるようにしていたんです。

当然、ある程度の収量力があるわけです。

ワークショップをやったり、コワーキングスペースにしたら面白いし、

そこに集まった人で仏教やお寺を面白くするアイデアや技術を開発する、なんてのもアリでしょう。

過去帳なんかも電子化すれば良いと思うんですよ。

 

テクノロジーを組み合わせれば、仏教体験は新しくなる。

問題は、どうディレクションして、必要な技術や人材をどう引っ張ってくるか。

まずは、お寺に人が集まる動きを起こしていきたいですね。

「iNaturalist」の活用方法を考えてみた

お久しぶりです。「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。

 

以前、このブログで「iNaturalist」というアプリを紹介しました。

A Community for Naturalists · iNaturalist.org

スマホで生きものの写真を撮ると日時や位置情報と一緒にクラウドにアップロードでき、

かつAIが画像判別で生きものの種類を提案してくれる、というスグレモノです。

 

僕らのような生きもの好きにとっては、見つけたものを片っ端からアップするというのも宝探しみたいで十分楽しめます。

でも、せっかくデータを共有して地図上に落としたりできるので、調査や研究にも応用したいところです。

 

[iNaturalistのデータの特徴と解析のしかた]

 

iNaturalistのデータから何かを言うとなると、組織的な一斉調査とは異なる点があります。

それは、基本的に「在のみデータ」ということです。

iNaturalistで得られるのは「いる」という情報のみです。「いない」という情報は出てきません。

従来、生きものの分布を「在・不在データ」から推定することはよくやられてきましたが、「在のみデータ」から推定するのは難しかった。

そこで提案されたのが最大エントロピーモデル(Maxentモデル)です。

詳しい仕組みは割愛しますが、これを使うことで、在のみデータから生きものの分布を精度よく推定することができるようになりました。

 

ただここで、iNaturalistのデータの持つもうひとつの特徴を考えましょう。

それは、「調査努力量が偏る」ということです。

「調査努力量」とは、「どのくらいの手間をかけて調べたか」ということです。

一斉調査ならある程度均一にできますが、iNaturalistではそうはいきません。

どうしても、みんながよく通る道や行きやすい場所の近くに観察が集中します。

そしてMaxentモデルは、調査努力量の偏りに弱いことが指摘されています。

そういう場合は、似た性質を持つ他の生きもののデータをバックグラウンドとして用いることで、

調査努力量の偏りを制御する方法があります。

 

こういう性質のデータを解析する手法も幾つか提案されていますので、状況に応じて活用していくと良いでしょう。

市民が参加して集めたデータをどう活用するかも、これからの生態学者の大事な仕事ではないか、と思います。

 

[iNaturalistのコミュニケーションへの応用]

 

・・・と、ここまで考えて気づきました。

市民が取ったデータをどう解析するか?も大事だけど、

iNaturalistが真価を発揮するのは、そのもっと前の段階なんじゃないか、と。

 

調査や研究の前に、大事なことがあります。それは「問題設定」です。

これをちゃんとやっておかないと、何を目的にやるのかいまひとつ納得いかないままになります。

そしてそれを設定するのに重要なのが「コミュニケーション」です。

富田(2018)が佐賀県のとある湿地を例に、コミュニケーションの過程を説明してくれています。

 

生態系とどう付き合っていくかを考えるとき、そこには多くの人が顔を出します。

地域住民、行政の担当者、研究者、などなど。

そしてそれぞれの立場によって、何が問題かという認識がズレてしまいがちです。

例の湿地では、川沿いの水田だったところにスポーツ施設を建設する案がある中、

「自然再生事業」をやると言い出したのは河川事務所、つまり行政でした。

そこから地域住民や専門家も参加して定期的に検討会を開くようになりましたが、

自然再生という問題設定は、住民にとっては唐突なものだったようです。「自然なんていっぱいあるじゃないか」と。

そこで、住民から湿地での暮らしや自然の様子を「聴く」ことで、住民がどういう意識を持っているかを知ろうとした。

これにより、行政側は「自然再生事業が住民にとってどんな意味を持ちうるのか」を、住民側は「先祖伝来の土地に自然再生事業がどう影響するのか」を、それぞれ考えることができた、というのです。

それから、行政は問題設定を「水辺と人間のかかわりの場の再生」に変え、住民側にも「子どもたちが水辺を体験する場として整備する」という意識が生まれたそうです。

問題設定のズレを無くすのに重要だったのは、「聴く」というプロセスでした。

 

ここにiNaturalistのデータがあるとどうなるか。

この「聴く」という過程において「ここにこんなのがいた」というのが共有しやすくなります。

そうするとそれがきっかけになって、様々な記憶が紐づいて出てくるかもしれない。

また、スマホ片手に自分たちで改めて探しにいくことで、忘れていたことや新たな発見に気づくかもしれない。

地図上に表示すれば、子どもたちや地域外の人たちにも、地域の現状を説明しやすくなる。

「聴く」というプロセスを支援することで、問題設定をより進められるのではないでしょうか。

 

今後、生態系の保全や管理の現場で、iNaturalistがどういう役割を演じられるか、注目していきたいところです。

 

[参考文献]

鷲谷いづみ・宮下直・西廣淳・角谷拓『保全生態学の手法』東京大学出版会(2010)

富田涼都『生物多様性保全をめぐる科学技術コミュニケーションのあり方』日本生態学会誌 68: 211-222 (2018)

仏像と堕落

最近、高遠で石仏を見る機会が多かったので、その中で思ったこと。

 

仏像の歴史をたどってみれば、インドで誕生した初期の仏教では仏像を拝んだりしてなかった。

それがガンダーラギリシャの彫刻文化に触れたことで、

「やっぱ像にした方がパッと見でわかりやすくね?」ということでせっせと作り始めた。

それまでの仏教者からすれば、「不敬」や「堕落」と映ったでしょう。

 

「最近の若いもんは」というセリフは、古代からあったそうです。

自分たちがやってきたやり方と違えば、それは「改悪」や「堕落」と映る。

論文読んでて知らない単語をネットで検索するようになれば、「最近の学生は辞書を引かなくなった」と嘆く。

撮った写真を判別して生きものの種類がわかるアプリを使えば、「図鑑で調べなくなる」と眉をひそめる。

大学の講義やゼミ中にわからないことをスマホで調べていると「講義中にスマホを触るな」とか言い出す。

(学生も学生で、研究室ではスマホでLINEとYouTubeばっか見てる奴が、

 ゼミになると急にかしこまってスマホもパソコンも使わなくなる。驚くほど律儀だ)

 

そんな人に言いたいことはあるが、言ってもあんま意味無いんですよねー。

地動説がメジャーになったのは、地動説論者が天動説論者を論破したからではなく、

単に天動説を信奉する古い世代が死んだから、ということらしい。

常識が変わるためには、人そのものが入れ替わらなきゃいけない。

既成事実を作ってそれを当たり前と捉える層を増やしていけば、

時期が来てその層が主流になった時に自然とパラダイムシフトは起きるんだと思います。

講義のこと

どうも、「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。

 

先週は急遽、郷里でもある福井県に出張することになりました。

福井県立大学の先生が、県内の現場で外来雑草の分布を調査しているのでその調査に加わり空撮画像を撮ってほしい、と言ってきたためです。

海にほど近い現場だったので風を読みながらではありましたが、何とか滞在中に目的の範囲の空撮画像を撮り終えました。

 

その一週間の滞在中に先生から突然、県立大学でゲスト講師として講義で喋ってほしい、と頼まれました。

 

思いがけない長尺を持て余し、

とりあえず「普段どんな研究をしているか」「福井へは何をしに帰ってきたのか」から始め、

そこから「なぜこんな研究をしようと思ったか」「この研究の先に何を見据えているのか」を話しました。

 

私は京都での大学時代、水田での肥料分の動きを研究したり、ミカン園での病害虫の発生を調査したりしていました。

その過程でコメ農家やミカン農家と繋がって、現場でたくさんのヒントをいただきましたし、

調査を通してわかったこと、考えたことは出来るだけ伝えることにしていました。

今、ドローンや光合成測定装置で野外の植物群落の評価に取り組んでいるのは、

その後の生育を推定することで管理に役立てるという道筋をつけるためです。

全て、現場の問題の解決を最終目標とする研究です。

「当事者の顔が浮かばない仕事はしない」というのが、私のモットーです。

 

講義の最後、私はこうブチ上げました。

生態学をはじめ、環境学社会学歴史学などといったフィールドワークを伴う分野の研究は、もはやプロの研究者だけのものではない。

 スマホのような情報端末が普及し、誰でも日時と位置情報が付随した記録をアップロードし、共有できる時代になった。

これからは市民と研究者が協同して地域の問題解決に取り組む時代だ。

 みなさんの中で将来、プロの研究者になる人は少数で、その他の人は会社や役所に入ったり、自分で事業をやったりするだろう。

 だけど、どんな立場になっても、研究はできるのだ。自分なりの課題を設定し検証する力があれば。

 だから、ぜひ身の回りを探検して、自分の暮らす地域や社会について理解を深めてほしい。

その中で疑問に思うことがあったら、どんな些細なことやマニアックなことでもいいから、

自ら調べ、仮説を立て、行動するということをやってみてほしい」

 

自分は研究者として、市民とプロジェクトを立ち上げ、データの取得や解析の面で指導的な役割を担いたい。

論文執筆や学会発表は、あくまで他の現場に横展開するための参考という位置付けに止めておきたいのです。それが目的ではないのです。

 

後になって、自分の講義を録音するのを忘れていたのに気がついて、後悔しました。

別に自分の話に酔ってではありません。今後に向けて話の内容をより吟味する材料にすべきだったと思ったからです。

こういうところがまだ初心者ですが、与えられた枠の中で自分の体験や考え方をいつでも話せるように備えておかなくてはいけませんね。