匠の技とは何ぞや

かつて堀江貴文氏が「料理人になるのに何年も修行する奴はバカ」と発言し,物議を醸した.
随分な言い草だとも思ったが,彼の言いたいことも分かる.
「匠の技」というのは,とかく聖域として扱われやすい.
しかし,実際どうなのだろう?
職人の持つ技能は,他のより効率的な学習によって部分的にでも置き換えられないのか?

 

確かに,職人の作るものや仕事ぶりには,毎度惚れ惚れとさせられる.
料理人は客を観察して性別や体格,利き手を把握し,味付けや盛り付け,配膳の仕方まで気を配る.
紙漉き職人はその日の気温や湿度によって,ネリの配合を微妙に調節する.
これは知識だけでは不可能で,相応の場数を踏まなきゃできない.

スマート農業に対する否定的・懐疑的な見方の多くに,匠の技を神聖視する姿勢が見え隠れする.
すなわち「長年の経験に裏打ちされた仕事が,機械なんかにできてたまるか」というような論調だ.
特にAIの発達は人間にSFじみた不気味な印象を与えるようで,
チェスや囲碁のソフトが人間のチャンピオンを負かしたというニュースを,手放しで喜ぶ気にはなれないという人が多いだろう.
それと同じ不気味さを,スマートなんちゃらという言葉から感じ取る人がいても無理はない.

 

しかし,全ての農家がスマート農業を導入しなくてはいけない理由は,どこにもない.
ここは機械で代替してもいいな,と思うところに導入すればいいのだ.
問題は,「いいとこどり」しにくい現状にある.
大手メーカーが作るシステムは多くの機能が標準搭載されていて,欲しい機能だけを導入することが難しい.
そのぶん導入コストが高くつくことになり,これが中小農家に広まらない一因だろう.
必要十分な機能をビュッフェ形式で組み合わせられるようにすれば,新たな市場が開けると思う.
自分たちが使う技術なのに,その開発でカヤの外に置かれれば,誰だって面白くない.
カスタマイズを容易にすることで,農家の職人魂を刺激することができれば理想的だ.
同時に農業技術を研究する者は,どういう形態の農家を対象にしているかを常に意識しなくてはならない.

 

実際,職人といえど機械化の恩恵を部分的に受けているものだ.
料理人も麺を茹でる時間はタイマーできっちり計る人が多い.
だからと言って,客の入りに応じて自動で麺を茹で,盛り付けや配膳までする機械を欲しがるだろうか?
そういう業態の店があってもいいが,それをすることで失われる価値もまたあるはずだ.
だが実際,回転寿司はそれに近いことをやって一定の成功を収めている.
職人は客と顔を合わせることもなく,工場のようなベルトコンベアーを使い,プラスチックの皿で寿司を食わせる.
タッチパネル横のスピーカーが皿が来ることを必要以上の音量で喚き立てるので,まるでゲーセンのような騒々しさだ.


また,料理人のほぼ全員が洗濯物は洗濯機に放り込んで脱水まで全自動,という具合だろう.
「洗濯も手洗いに限る,機械なんぞに任せられん!」などと言うのはよほどの変人である.まあ,好きにしてくれて構わないが・・・
例えば農地周りの草刈りや獣害対策などは,多くの農家にとってできれば手をかけたくない分野に違いない.
そういう分野には,スマート技術を導入する意義は大いにある.

 

私自身,たまに陶芸をやる.
多少の金を出せば,私が作る茶碗や花瓶よりよほど良いものが買えるだろう.
下手くそな素人が作るのは,時間的にもコスト的にも効率が悪すぎる.スマートさの欠片も無い.
ただ,陶芸をやることで私が求めているのは,単に茶碗や花瓶という「モノ」ではない.
作る「過程」や使う「体験」を欲しているのである.
農業にも,いやどんな仕事にも,そういう側面はあるだろう.

 

スマート技術を追求することは,「経験することの意味」を問うことなのかもしれない.