動的な共同体の生態

中国の歴史には、北方の民族が中原に侵入して成立した王朝がたびたび登場する。
鮮卑北魏、蒙古の元、女真(満洲)の金・清など。
彼らに共通するのは、自らを社会も文化も全く異なる中華の後継者と位置づけ、程度の差こそあれその在り方を積極的に取り入れた点である。
無論彼らも、清の辮髪のように、自らの慣習を被支配地域に強制することはあった。元が科挙を停止したように、相手の慣習を否定することもあった。
しかし彼らは中原に都を移し、宮城に定住し、自らを天子とした。
北京は広大な中国の中であまりに北に寄っているが、それは農耕世界の中で最も遊牧世界に近接した場所に都を置いた結果である。
中国だけではない。ユーラシア全体を見ても、北インドペルシャアナトリアなど、中央部の遊牧世界と周縁部の農耕世界との接点に帝国が生まれ、繁栄を謳歌し、香り高い文化が花開いている。


移民を受け入れれば、国は変わる。
移住者を受け入れれば、地域は変わる。
新入社員や研修生を受け入れれば、職場は変わる。
婿や嫁を受け入れれば、家族は変わる。
異なる背景を持つ者どうしがひとつの共同体を作る時、受け入れられる側も受け入れる側も、変化することになる。


翻って、今日の日本に思いを巡らす時、僕らはあまりに変化を恐れ、変化しないことを前提として、一方的に押しつけ(られ)るか、さもなくば拒絶するかの二者択一ばかりやっていないだろうか。
確かに日本は敗戦後の占領期を除いて、他国の支配を受けずに今日まで来た。共同体の在りようを大きく変える機会は、世界の他地域に比して少なかったかも知れない。
しかし僕ら日本人は、共同体をもっと動的なものとして捉え、変化することを前提として共存の道を探るべきではないだろうか。
そして教養は、自らを相対化し、他者の伝統や価値観に思いを寄せるためにある。
常識とは本来、そうした教養に基づく共通認識でなければならないが、今日の日本では専ら、狭い共同体の慣習や感覚を一方的に押しつけるために用いられている。
外的要因が常に変化する以上、変わることのできない共同体は早晩衰退する。
個々の成員が変わらない場合、成員の老死に伴う世代交代でしか共同体は変わりえないことになるが、それでは急速な変化には対応できない。
老死を待たず自ら学び続け、交わり続ける共同体だけが、その命脈を保ちうるのだ。
共同体を次代へ引き継ぐ責任を自覚するならば、学ばない、交わらないという選択肢は無いのである。


それともやはり、日本のような辺境の島国には、他者と交わることで自らも変わることを受け入れるなど、困難なのだろうか。
日本のタテ社会は、個々の成員の能力よりも、彼がいかに長くその共同体に身を置いているかを重視する。長くいればいるほど、共同体の慣習や成員間の人間関係を理解していること、すなわち「馴染んでいること」が期待できるからだ。これこそが、多くの日本人が「成長」と呼ぶものの実態である。
これにより、共同体の慣習に精通し高い技能を持つ職人型の人材を育成できるし、共同体の維持に必要な相互扶助の体制を構築しやすくなる。
その一方で、共同体の慣習そのものの変化は検討されず、変化への対応は専ら個々の成員に求められるが、その判断は再現性の乏しい一過性のものになりがちだ。
僕はそうした個別の判断を、後から検証することを提案したい。言うなれば、自らの歴史を学ぶということだ。
そうすることで、今後同様の事案が生じた時に、成員に依らず高い再現性をもって対応できるようになる。
実際英国は、高い教養に裏打ちされた判断を慣例として積み重ねることで、独自の社会秩序を形作ってきた。
そこでは、年長者や先輩の権威は、その共同体に長く身を置くことでもれなく得られるものではない。彼らは歴史的な観点から個々の案件を評価できる「有識者」であって初めて、権威を保ちうる。
その意味でも、時間的・空間的に異なる共同体に学び、交わり続けることが、重要になってくるのである。
学ぶとは、「いま」「ここ」「わたし」を相対化して、文脈や空間の中に位置づけることだ。
その積み重ねが、変化を生き抜く強さとなる。


生物においては、環境の変化には遺伝的変異や表現型の可塑性によって対応することになる。
しかし表現型の可塑性も結局は遺伝子に組み込まれたものであるから、大きな変化への対応は遺伝子頻度の変化を待つほかなく、それが追いつかなければ衰退を余儀なくされる。
人間は遺伝子に加えて、言語という媒体を獲得した。これは後天的に新たな情報を取り入れ、世代交代や移動に依らずして自らを改変することを可能にした。また、言語によるコミュニケーションは、複雑で大量の情報を迅速に伝達し、他者の後天的な変化をも促すことを可能にした。
共同体の「空気」もまた媒体と見なしうるが、この媒体は伝達に時間がかかる。交配と世代交代による遺伝子頻度の変化よりは速いが、言語によるコミュニケーションには遠く及ばない。利点があるとすれば、既に体得したものの表現は言語による判断やリボソームによるペプチド合成より速く、瞬時にできることだ。
「空気」の利点は残しつつも過度に依存することなく、言語に基づく思考と判断を積み重ね伝達していくことを、僕らはもっと重視すべきではないだろうか。