スマート〇〇がスマートでなくなる日

いわゆる「スマート農業」呼ばれるものに接するときは,一歩引いて見るようにしている.
もちろん個々の技術は立派なものだし,私の研究内容もその範疇に入りうる.
が,それらを「スマート農業」と一括りに呼ぶことに釈然としないのだ.


僕は「スマート農業」とは呼ばずに,具体的なコンセプトや仕組みを言うようにしている.
「近接リモートセンシング」とか「意思決定支援システム」というように.
安易に「スマート農業」という言葉を使うと,全てを解決してくれるかのように歓迎する人もいれば,よく分からない胡散臭いものとして反発する人,自分には関係ないとシャッターを下ろしてしまう人もいる.
要するに,色眼鏡で見るのではなく,きちんと個別に評価してほしいのである.


「スマート〇〇」という言葉は「スマートフォン」が世に出て以降あっという間に氾濫した.
今日では,「新しくて今までにないもの実現してくれる(が,その内実はよく分からなくて自分たちとは縁遠い)」感じを表す言葉として,非常に便利に使われていると思う.
ややもすると,スマートという接頭辞をつけることで個別に内実を見ることを放棄し,悦に入ったり逆に退けたりすることが横行していないだろうか.


かつてナウくてヤングだと言われたものがもはやナウくもヤングでもないように,今スマートだと言われているものがスマートとみなされなくなる日が必ず来る.いや,来なくてはいけない.その時が来るまでスマートと呼ばれ続けるものはもはや裸の王様であって,ただ打ち倒される以外になくなるであろう.
「スマート〇〇」と呼ばれているものが真に市民権を得るには,自らそのカテゴリーの殻を破り,できることとできないことを示し,多くの人の協力を得ることが必要ではないだろうか.


次の世代の技術は何と総称されるようになるのか.
それとも今度は,安易な言葉に頼らずに,個別に評価することになるだろうか.
歴史を見る限り,後者にはならなさそうだ・・・

動的な共同体の生態

中国の歴史には、北方の民族が中原に侵入して成立した王朝がたびたび登場する。
鮮卑北魏、蒙古の元、女真(満洲)の金・清など。
彼らに共通するのは、自らを社会も文化も全く異なる中華の後継者と位置づけ、程度の差こそあれその在り方を積極的に取り入れた点である。
無論彼らも、清の辮髪のように、自らの慣習を被支配地域に強制することはあった。元が科挙を停止したように、相手の慣習を否定することもあった。
しかし彼らは中原に都を移し、宮城に定住し、自らを天子とした。
北京は広大な中国の中であまりに北に寄っているが、それは農耕世界の中で最も遊牧世界に近接した場所に都を置いた結果である。
中国だけではない。ユーラシア全体を見ても、北インドペルシャアナトリアなど、中央部の遊牧世界と周縁部の農耕世界との接点に帝国が生まれ、繁栄を謳歌し、香り高い文化が花開いている。


移民を受け入れれば、国は変わる。
移住者を受け入れれば、地域は変わる。
新入社員や研修生を受け入れれば、職場は変わる。
婿や嫁を受け入れれば、家族は変わる。
異なる背景を持つ者どうしがひとつの共同体を作る時、受け入れられる側も受け入れる側も、変化することになる。


翻って、今日の日本に思いを巡らす時、僕らはあまりに変化を恐れ、変化しないことを前提として、一方的に押しつけ(られ)るか、さもなくば拒絶するかの二者択一ばかりやっていないだろうか。
確かに日本は敗戦後の占領期を除いて、他国の支配を受けずに今日まで来た。共同体の在りようを大きく変える機会は、世界の他地域に比して少なかったかも知れない。
しかし僕ら日本人は、共同体をもっと動的なものとして捉え、変化することを前提として共存の道を探るべきではないだろうか。
そして教養は、自らを相対化し、他者の伝統や価値観に思いを寄せるためにある。
常識とは本来、そうした教養に基づく共通認識でなければならないが、今日の日本では専ら、狭い共同体の慣習や感覚を一方的に押しつけるために用いられている。
外的要因が常に変化する以上、変わることのできない共同体は早晩衰退する。
個々の成員が変わらない場合、成員の老死に伴う世代交代でしか共同体は変わりえないことになるが、それでは急速な変化には対応できない。
老死を待たず自ら学び続け、交わり続ける共同体だけが、その命脈を保ちうるのだ。
共同体を次代へ引き継ぐ責任を自覚するならば、学ばない、交わらないという選択肢は無いのである。


それともやはり、日本のような辺境の島国には、他者と交わることで自らも変わることを受け入れるなど、困難なのだろうか。
日本のタテ社会は、個々の成員の能力よりも、彼がいかに長くその共同体に身を置いているかを重視する。長くいればいるほど、共同体の慣習や成員間の人間関係を理解していること、すなわち「馴染んでいること」が期待できるからだ。これこそが、多くの日本人が「成長」と呼ぶものの実態である。
これにより、共同体の慣習に精通し高い技能を持つ職人型の人材を育成できるし、共同体の維持に必要な相互扶助の体制を構築しやすくなる。
その一方で、共同体の慣習そのものの変化は検討されず、変化への対応は専ら個々の成員に求められるが、その判断は再現性の乏しい一過性のものになりがちだ。
僕はそうした個別の判断を、後から検証することを提案したい。言うなれば、自らの歴史を学ぶということだ。
そうすることで、今後同様の事案が生じた時に、成員に依らず高い再現性をもって対応できるようになる。
実際英国は、高い教養に裏打ちされた判断を慣例として積み重ねることで、独自の社会秩序を形作ってきた。
そこでは、年長者や先輩の権威は、その共同体に長く身を置くことでもれなく得られるものではない。彼らは歴史的な観点から個々の案件を評価できる「有識者」であって初めて、権威を保ちうる。
その意味でも、時間的・空間的に異なる共同体に学び、交わり続けることが、重要になってくるのである。
学ぶとは、「いま」「ここ」「わたし」を相対化して、文脈や空間の中に位置づけることだ。
その積み重ねが、変化を生き抜く強さとなる。


生物においては、環境の変化には遺伝的変異や表現型の可塑性によって対応することになる。
しかし表現型の可塑性も結局は遺伝子に組み込まれたものであるから、大きな変化への対応は遺伝子頻度の変化を待つほかなく、それが追いつかなければ衰退を余儀なくされる。
人間は遺伝子に加えて、言語という媒体を獲得した。これは後天的に新たな情報を取り入れ、世代交代や移動に依らずして自らを改変することを可能にした。また、言語によるコミュニケーションは、複雑で大量の情報を迅速に伝達し、他者の後天的な変化をも促すことを可能にした。
共同体の「空気」もまた媒体と見なしうるが、この媒体は伝達に時間がかかる。交配と世代交代による遺伝子頻度の変化よりは速いが、言語によるコミュニケーションには遠く及ばない。利点があるとすれば、既に体得したものの表現は言語による判断やリボソームによるペプチド合成より速く、瞬時にできることだ。
「空気」の利点は残しつつも過度に依存することなく、言語に基づく思考と判断を積み重ね伝達していくことを、僕らはもっと重視すべきではないだろうか。

家族的な,あまりに家族的な

日本の共同体は,家族的な結びつきを求める.
家族的な共同体は,その成員に状況に応じてあらゆる役割を期待する.
家庭ではメシを作り,掃除をし,子供や年寄りの面倒を見る.それが死ぬまで続く.
職場では数年おきに部署を移動し,本来の職務以外に様々な雑務が加わる.仕事終わりには飲みに行き,社員旅行もある.それが定年まで続く.
地域では草刈りをし,町内を見回り,電気柵を張る.会合では酒が出て,祭りや慰安旅行もある.それが死ぬか引越しするまで続く.
 
あらゆる仕事を経験することで,幅広い知識や技能が身につく.
他の成員と情緒的な人間関係を作ることで,いざという時に一致して行動できる.
一方,成員の能力の差は重視されず,専門性はあまり活かされない.
 
また,家族的な結びつきは,ヨソ者を厳しく区別する.
共同体の一員として認められない人たちに対しては,参加したり恩恵に与ったりする機会は制限される.
しかし今,従来の共同体に属さない層が増えつつある.
家族と離れて暮らす独居世帯や核家族世帯.
フリーターや派遣労働者
大学院に進み,就職が遅れた人たち.
フリーランスで働くその道のエキスパート.
60歳代まで家族的共同体の中で職務と育児という大役を果たしてきた人たちも,子供たちが独立し定年を迎えると共同体における役割を喪失することになる.
家族的共同体にはメリットも大きいが,それだけでは必然的に取りこぼしが多くなる.
 
一方,高齢化や人口減少で,多くの家族的共同体でマンパワーが目減りしている.
中山間地で生活や農業を営むには集落を挙げて水路の管理や除草作業,獣害対策に当たる必要がある.しかし,今後数年の間にその担い手は大きく減少するだろう.
また,私の住む福井県は,夫婦の共働き率が全国でも最高レベルだ.
これは,子育て中の夫婦がその親と同居,もしくは近くに住んでいるため,育児や家事の一部を親に委託できることが大きい.
高い共働き率と世帯年収は,家族(的共同体)による無償のサービスによって成り立っている.
共同体やそのサービスの維持は,そもそもの負担の大きさに加え,担い手の減少,前提となる生活様式の多様化などの課題を抱えている.
家族(的共同体)が担ってきた仕事の一部を解放し,新たな担い手に託すことが,社会を支える体制を今後も維持していく上で不可欠なのではないか.
学校終わりから親が帰宅するまでの間,子供の面倒を見るサービス.
農地や集落の草刈りや柵の設置を代行するサービス.
学業や部活動において,外部の専門家が指導をするサービス.
などなど.
 
家族的サービスが大きな負担になったり,それを享受する条件を満たさない人たちに不便を強いたりしていないだろうか?
そしてこの体制は,今後も持続できる見込みがあるのか?
この問への回答次第では,誰がどのようにサービスを担っていくべきか考え,先手を取って動かなくてはなるまい.

作り手と使い手

先日実家に帰った折,玄関先の青い花瓶に,薔薇の花が生けてあった.
花瓶はかつて私が陶芸を趣味としていた時に作ったもので,釉が垂れたところが泡立って表面がぶつぶつとしている.
そこへ,母が庭先から赤い薔薇の花を切り取ってきて,生けてあったのである.
深い青色に薔薇の葉の緑と花の赤が良く合い,形も底が丸くどっしりとしていて,全体として安定していた.
作り手として,作ったものがこのような形で報われていることに有り難みを感じるとともに,その使い手である母に感謝したいと思った.
器それ自体にはこれといって美点は無く,単独ではとても鑑賞に堪えるものではない.
使い手がいて初めて花が生けられ,鑑賞の対象としての価値を持つのである.
元来花器とはそういうもので,それ自体が骨董や文化財としての価値を持つものはあるだろうが,あくまで主役は花であり,器はその基礎に過ぎない.
 
作り手の仕事は,主役たる使い手がいて初めて,価値を持つようになる.これは何も花器に限った話ではない.
研究者が論文を書くのは,自分の勉強の成果を同業諸氏の批評に曝すとともに,各々の仕事に幾分か参考になれば幸いと思うからである.
だとすれば,論文は読まれて初めて価値を持つのである.直ちに注目される必要は無いにしても,将来の誰かの仕事の役に立つことを希望するから書くのである.
同様に,研究を通して得られる知見やシステムにしても,普及を通して現場で使われることによって価値を持つ.
仕事の方向性を見失ったら,必ずこの原点に立ち返らなくてはいけない.
 
その上で,作り手と使い手の距離が近いことは,作ることと使うことの双方の価値を高める上で大きなメリットになる.
私がかつて信州にいた頃に参加した2019年の「伊那谷グランシェフの会」では,農家と料理人が共同で料理を作り,客をもてなした.
この時,料理人は農家から見れば使い手だが,客から見れば作り手となる.
価値が受け渡されていく様子が目の前で展開され,更なる価値が創出される可能性を感じた.
日常の流通では,一連のバリューチェーンの中にもっと多くの作り手と使い手が携わり,価値が付与されていく.
上流と下流の相互理解が活発になれば,価値はより深まっていくに違いない.
 
私が勤める福井県は食材に恵まれ,豊かな食文化を持ち,工芸の伝統も多く受け継がれている.
作り手と使い手の距離を近づけ高めあう状況を整えることは,価値を最速で深めていく鍵になる,と思ったりした.

農業とは殺すことと見つけたり

普段農業に触れる機会の無い人が農村に行ったり,農作業を体験したりすると,大体お決まりの台詞が出てくる.
「自然の中で生きものを育てるって,良いですね」
感動するのは結構だが,僕はこんな台詞を聞くたびに違和感を覚える.
 
 
まず「自然」についてだが,農地は決して手つかずの自然ではない.
農地が人間が開墾する前から農地であったはずはないし,人間が農業を止めれば途端に荒れ始める.
ただ,農地の条件にうまく適応できている生物種が多数いる.それらは,農地における適度な撹乱を必要としている.
その撹乱にどれだけの努力が払われているかということは,外部からは見えにくい.
そのため,自然と人為を二項対立させる考え方のもと,農地を安易に自然に振り分けてしまうのである.
自然と人為の間のスペクトラムを知らなければ,この辛苦と豊穣は捉えられない.
 
 
また,農作業を通しでやってみれば,必ず「殺す」ことになる.
例えば,死神というと,どんな姿を思い浮かべるだろうか.
骸骨が黒いフードを被り,手に大鎌を持つ,というのが紋切り型のイメージだろう.
問題は,人の命を取るのになぜ鎌なのか,ということだ.
人が集団で命を奪い合う戦場で,鎌が主力武器として使われた例を聞いたことがない.
鎌でもうまくやれば人を殺せるだろうが,人の命を奪う道具としては,剣や槍や弓矢の方がよほど適しているだろう.
それでも西洋で死神を表す記号として鎌が採用されたということは,武器である剣や槍や弓矢よりも農具である鎌の方が,死のイメージに近かったということになる.
農業では,元からいた動植物を殺して農地を確保し,栽培が始まってからは雑草や害虫を駆除し,収穫時には鎌などを用いて切り取る.
生きものを育てるということは,その途中において対象に害をなすものを殺し,その最後において対象そのものを殺すことだ.
西洋では,農耕の神クロノスは時の神でもあった.また,時間の擬人化である時の翁は,大鎌を持っていた.
時に従って死をもたらすことこそが農耕であるとするなら,人もまた時に従って老い,最後には鎌にかかって死ぬというのが,農耕民にはイメージしやすかったのかもしれない.
 
 
人間が糧を得るためには,土地や生物に対して,時に暴力的に働きかけなくてはならない.
都市的な生活をしていると,どうもその感覚がうすぼんやりしがちだ.
 

人生で大切なことは、すべてゲームから教わった(?)

これまで、仕事・勉強・研究の傍ら、たくさんの本を読んできたし、たくさんの映像作品も見てきた。
この国が平和でかつ文化資本の蓄積があることに、感謝せねばなるまい。
(それが今後どれだけ続くか不安な面もあるが、僕たちの世代で失うような情けないことにはしたくない)
 
しかし、これまでに触れたものの中で最も影響を受けているのは、ゲームなのではないかと思う。
仕事や研究の中で、過去のゲーム体験がよみがえることがある。
「iNaturalist」に初めて触れたときは、自分のスマホポケモン図鑑になったように感じた。
ドローンの空撮画像を眺めていたら、「ファイアーエムブレム」のマップを見ているかのような錯覚を覚えた。
 
 
ゲームづくりからは、多くの示唆を得ることができる。
このことに気づいたのは、田中圭一氏の漫画「若ゲの至り」を読んだ時だった。
そこでは、名作を生みだしたクリエイターたちが、苦闘の先に何を実現したかが描かれる。
ソフトは数千円(時には数万円)の価格に見合うものでなければならないし、アーケードゲームは10分間のプレイで次なる100円玉を投入させなければならない。
限られた時間の中で、自分の欲求が満たされる(ことが期待できる)体験を提供する必要がある。
それは、表現やプレゼンにおいても、すごく重要なスキルだと思う。
 
休日に繰り返し観るのは、任天堂公式チャンネルにおける「○○○のつかいかた」シリーズである。
大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL」のディレクターである桜井政博氏が、新キャラクターの解説をする動画だ。
(ちなみに僕はスマブラシリーズは初代64版のみ)
膨大な知識と経験を持つ一流のクリエイターである桜井氏が、限られた時間の中でキャラクターの魅力を伝える。
スマブラは愉快なパーティーゲーム」という軸が守られ、親しみやすさと熱量が両立している。
僕も公私にわたって人前で話す機会が増えてきたが、最近は口調まで桜井氏に似てきた気がする。
すごくワクワクする内容を話していながら、丁寧で落ち着いた口調。高すぎるテンションでマニア以外を置き去りにするようなこともない。
 
 
任天堂横井軍平氏の「枯れた技術の水平思考」という考え方は、まさにイノベーションの根幹だ。
大事なのは、個々の要素が新しいかどうかではなく、全体として新鮮な体験を提供できるかどうか。
研究においても、最新の知見や手法をフォローするのはもちろん大事。
でもそれ以上に重要なのは、「自分たちが確実にできることを組み合わせて、何ができそうか」を嗅ぎつけることだと思う。
それに、実際に技術を使うのは研究者ではない。使いやすさと費用を考えれば、技術そのものは枯れたものの方が良い。
低コストである方が、開発する側もどんどん試行錯誤できる。
未来の「枯れた技術」を作ってくれている研究者には敬意を表しつつ、それらを組み合わせることで使いやすいものを作りたい。
 
もちろん、僕が作っているものは「楽しいもの」ではなく「役に立つもの」なので、娯楽品のゲームとは根本的に違うところもある。
それに今後はデータ解析の発達で、「万人受けするもの」だけじゃなく「個別最適化されたもの」の比重も大きくなるだろうし。
データ科学者の宮田裕章氏の言葉を借りれば、「最大多"数"の最大幸福」から「最大多"様"の最大幸福」を目指す動きが大きくなる。
ゲームにしても映画にしても、万人受けしないと制作費用を回収できない、という状況が続いた。
しかし、ハードとソフトの両面で個別最適化に要するコストが下がることで,技術をより満足度の高い形で水平展開できるようになるだろう。
 
 
以前の僕には、大学や国の機関の研究者に対して引け目があった。恥ずかしながら、嫉妬もあった。
でも今は、単にポジションや役割が違うのだと考えている。枯れた知見や技術を実用に落とし込み「個別最適化」することこそ、僕の仕事だ。
引け目や嫉妬などは,無意味なことだった。
そこには向き不向きはあっても、仕事としての価値は比べること自体意味をなさない。
 
任天堂山内溥氏の「失意泰然、得意冷然」という言葉は、仕事や研究が捗らないときに、じっくりと腰を据える勇気をくれる。
表題のようにすべてとは行かないまでも、ゲームを通して得られた体験は確実に僕の血肉になっている。

結局、ドローンで何ができるの?

この夏から,ドローンの登録が義務化されますね.

お金はかかってしまいますが,これも時代の趨勢です.

私も個人でドローンを持っていますが,オンラインで案外簡単に登録できました.

https://www.mlit.go.jp/koku/drone/

 

また,ドローンを飛ばすときには事故のリスクは常にあるので,ドローンが壊れたり人やモノに被害が出たりした時のために,ドローン保険に入っておくのも忘れずに.

自動車なら自賠責保険の加入は義務で,その上で任意保険に入るのが基本ですから.

使い方を一歩間違えばケガをするという意味ではクルマと一緒です.

 

あと,飛ばすときは近くの人に挨拶するというのも,大事ですね.

好奇の眼で見て不用意に近づいてくる人や,逆にけしからんみたいなことを言う人も結構いるので.

ドローンを誰にとっても身近なものにするためにも,コミュニケーションは大切です.

 

ドローン自体はもう目新しいものではなくなっています.

ただ,スマート農業を推進する上で,これさえあれば何かできるだろうという安易なノリで導入する向きもありますが,そんな単純じゃありません.

やはり,その長所短所を知った上で,道具の一つとして加えるのが正しいでしょう.

 

雑草の分布や生態をドローンで観てきた経験からすると,やはり一番の違いは,「面的にデータを取れる」ってことじゃないですかね.

定量的な面的データから,空間動態の解析はしやすくなりました.

田起こし・代掻き・田植え・施肥・中干し・除草・稲刈り,などなど,田んぼ仕事は基本的に,田んぼに面的に働きかけるものです.

(園芸や畜産とかだと各個体に働きかけるので面的とは言えませんが,園芸作物や家畜もまた農地の面的な広がりの中で育つので,面的データは価値を持つでしょう)

植物の状態や農作業の効果を評価するのに,これほどありがたい道具もないでしょう.

 

大した広さでなければ,それこそ絨毯爆撃式にくまなく歩けば調査できるけど,

これがでっかい田んぼや河原や山とかになれば,そんなの時間と手間が追いつかないわけで.

しかも,歩いて調査するのが危険だったり,踏み込んだら調査地を撹乱してしまうような状況では,やはりドローンの出番ということになるでしょう.

「植生を壊さずに継続してデータが取れる」のも大きな利点です.

 

あとは,衛星画像との違いでいうと,やはり「解像度」と「撮影頻度」,

つまり「面的データの時間的・空間的分解能の高さ」ってことになると思います.

センチ以下の解像度なら,田面の雑草や花なんかを検出することも可能です.

あと,地表の凹凸も3次元モデルを作ることで再現できるし,植物の生育量や生育活性も,分光反射率から推定できます.

搭載するカメラを付け替えられるのも,ドローンの利点でしょうか.

 

案外見落とされがちなドローンの弱点としては「飛ばせる場所とタイミングにけっこう制約がある」ってことです.

雨風を避けるのは基本.衛星画像だって雲があると何も見えないわけですが.

あと,高圧電線や幹線道路・鉄道・民家・飛行場があるところは避けなきゃならない.

基本的に,人とインフラを脅かしてはいけません.

また,当たり前ですが「真上から見えないものは撮れない」.

それと,安全に飛ばすとなると人が見てなきゃいけないので,「現場に行く手間は相変わらずだし,飛ばすにも手間がかかる」.

単純に人工は増えると思った方がいいです.

ドローンでできることが,果たして自分の目的に適っているか,決して少なくないコストやリスクに見合うだけの利益をもたらしてくれるか,冷静に考えなくてはいけません.

 

ドローンなんてもう珍しくもないのだし,使うこと自体には何の価値もありません.

道具の一つとして,研究や営農にどう役立てるか.

それをディレクションできるかが,研究者にも普及員にも,ドローンメーカーの営業さんにも求められていると思います.