スマート〇〇がスマートでなくなる日

いわゆる「スマート農業」呼ばれるものに接するときは,一歩引いて見るようにしている.
もちろん個々の技術は立派なものだし,私の研究内容もその範疇に入りうる.
が,それらを「スマート農業」と一括りに呼ぶことに釈然としないのだ.


僕は「スマート農業」とは呼ばずに,具体的なコンセプトや仕組みを言うようにしている.
「近接リモートセンシング」とか「意思決定支援システム」というように.
安易に「スマート農業」という言葉を使うと,全てを解決してくれるかのように歓迎する人もいれば,よく分からない胡散臭いものとして反発する人,自分には関係ないとシャッターを下ろしてしまう人もいる.
要するに,色眼鏡で見るのではなく,きちんと個別に評価してほしいのである.


「スマート〇〇」という言葉は「スマートフォン」が世に出て以降あっという間に氾濫した.
今日では,「新しくて今までにないもの実現してくれる(が,その内実はよく分からなくて自分たちとは縁遠い)」感じを表す言葉として,非常に便利に使われていると思う.
ややもすると,スマートという接頭辞をつけることで個別に内実を見ることを放棄し,悦に入ったり逆に退けたりすることが横行していないだろうか.


かつてナウくてヤングだと言われたものがもはやナウくもヤングでもないように,今スマートだと言われているものがスマートとみなされなくなる日が必ず来る.いや,来なくてはいけない.その時が来るまでスマートと呼ばれ続けるものはもはや裸の王様であって,ただ打ち倒される以外になくなるであろう.
「スマート〇〇」と呼ばれているものが真に市民権を得るには,自らそのカテゴリーの殻を破り,できることとできないことを示し,多くの人の協力を得ることが必要ではないだろうか.


次の世代の技術は何と総称されるようになるのか.
それとも今度は,安易な言葉に頼らずに,個別に評価することになるだろうか.
歴史を見る限り,後者にはならなさそうだ・・・