残差の中に物語を求めて
どうも、「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。
ただ今、階層ベイズモデルにどっぷり浸かっています。
ある変数を説明する変数を、また別の変数で説明し・・・というように階層的にモデル式を立てることで、
ものすごく柔軟にモデルを作ることができます。
統計ソフト「R」とベイズモデリングに便利な「Stan」の組み合わせが強力で、
これまで教科書や論文で読んだり、自ら考えたりしたモデルをいくつも組み合わせることで、
ドローンで得た群落の面的情報から、植物の生育に関するパラメータを時期ごとに推定できそうです。
去年のデータやダミーのデータを使って、モデルを絶賛改良中です。
計算機の発達で、モデリングやシミュレーションはみるみる高度になっていきます。
モデルが洗練されるほど、より現実に近いシミュレーションができる。
シミュレーションの大切さは古くは『孫子』でも強調されていて、
「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」というように、実行前に勝算を得ておく必要性を説いています。
シミュレーションによって勝敗が分かっているなら、あえて実戦を行って犠牲を出すのは愚かしいことのように思えます。
ですが、戦争の勝敗も植物の生育も、計りきれない部分が必ず残ります。
天候の変化や情報伝達の齟齬、流言飛語による士気の動揺などは予測が難しい。
クラウゼヴィッツは『戦争論』の中で、こうした要素を「戦場の摩擦」と呼んでいます。
これらの一部は、気象観測やGPS、通信記録解析などの発達で解消されたと言えるでしょう。
それでも、戦闘の勝敗を完璧に予測することなど、今もって夢のまた夢です。
でもモデル屋はそこで絶望しません。これこそ、モデルが進化する好機です。
もしかして、モデルに組み込めていない何らかの要素が、実は大きく影響しているのではないか?
残差の中に、何が潜んでいるのか?
改めてデータに目を凝らし、文献を漁り、現場に足繁く通って、見逃している要素を探す。
そして再度モデリングを行い、変数を絞り込んでいく。
モデルは人智の結晶なのです。
一方で人は、どんなにモデリングを発達させても、やはりそれを実行して確かめたいと望むでしょう。
仮に予想とほとんど変わらない、順当な結果に終わったとしても。
そこに残差が、摩擦があって、それが時として結果に重大な影響を及ぼすことを人は歴史と経験から知っている。
残差に潜む、未知の変数こそが、人を掻き立てる物語の源泉なのでしょうか。
諸葛孔明は赤壁の戦いに臨んで、土地の漁師を雇って天候についての情報を得、会戦当日の風向きを予想して火攻めの計画を立てたといいます。
敵にとっては戦場の摩擦でしかなかった天候を、孔明はしっかりと勝利のモデル式に組み込んでいた。
その上で孔明は風を呼ぶ儀式を行い、超自然的なものが自軍に味方したかのように演出しました。
物語の力で精神的にも優位に立ち、戦局をさらに有利にしたのです。
神話の語り部も歴代の文豪たちも、まだ定式化できていない要素から物語を紡いでいるのではないか。
モデル屋として、一人の人間として、計りきれない残差と向き合うことが、
人生をより豊かにしてくれそうな気がしています。
新しい仏教体験?
母の実家がお寺だったこと、そもそも信仰の篤い越前に生まれたこと。
私にとって仏教は身近なものでした。
お堂の真ん中が囲ってあって、天井からキンキラキンの飾りが下がってて、奥にご本尊があって、
今は亡き祖父がむにゃむにゃとお経を上げている。それを檀家さんが頭を垂れて聴いている。
お経の内容なんてさっぱり分からなかったけど、子供心に不思議な空間だと思いました。
大人になって、桑田佳祐のライブに行って「銀河の星屑」という曲を聴いた時、
ステージの演出を観て「法要ってライブだったんだ」と直感しました。
ロックスターはみんなを代表してお経を上げるお坊さんで、日常とは異なる空間を演出しながら、
人生で大事なことを語りかけたり、何かに祈ったりする。
だったら、逆にライブの演出とかを法要に取り入れても良いんじゃないか・・・
そうこうしてたら、越前のあるお寺で「テクノ法要」なるものが始まったと聞き、
ネットで動画を探して観たのですが、これにはたまげました。
プロジェクションマッピングを使い、テクノミュージックに乗せてお経を上げる。
お堂の中で「法要×ライブ」という図式ができていたのです。
このお寺の住職はPerfumeのライブを観た時に着想を得たと言っていました。
確かに「Dream Land」という曲などは、歌詞といい曲調といい現代版の「阿弥陀経」かもしれません。
あと、お寺ってお堂といい境内といい、ちょっとした集まりをやるには丁度いい広さのような気がするんです。
実際、私の地元の武生では、お寺でコンサートやハッカソンをやっているところがありました。
城下町あるあるとして、町外れにお寺がいくつも並んでいて「寺町」なんて呼ばれている一角があったりしますが、
一国一城令のせいで表立って新たな城を作れない各藩が、寺を出城代わりにしていざとなったら兵を配置できるようにしていたんです。
当然、ある程度の収量力があるわけです。
ワークショップをやったり、コワーキングスペースにしたら面白いし、
そこに集まった人で仏教やお寺を面白くするアイデアや技術を開発する、なんてのもアリでしょう。
過去帳なんかも電子化すれば良いと思うんですよ。
問題は、どうディレクションして、必要な技術や人材をどう引っ張ってくるか。
まずは、お寺に人が集まる動きを起こしていきたいですね。
「iNaturalist」の活用方法を考えてみた
お久しぶりです。「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。
以前、このブログで「iNaturalist」というアプリを紹介しました。
A Community for Naturalists · iNaturalist.org
スマホで生きものの写真を撮ると日時や位置情報と一緒にクラウドにアップロードでき、
かつAIが画像判別で生きものの種類を提案してくれる、というスグレモノです。
僕らのような生きもの好きにとっては、見つけたものを片っ端からアップするというのも宝探しみたいで十分楽しめます。
でも、せっかくデータを共有して地図上に落としたりできるので、調査や研究にも応用したいところです。
[iNaturalistのデータの特徴と解析のしかた]
iNaturalistのデータから何かを言うとなると、組織的な一斉調査とは異なる点があります。
それは、基本的に「在のみデータ」ということです。
iNaturalistで得られるのは「いる」という情報のみです。「いない」という情報は出てきません。
従来、生きものの分布を「在・不在データ」から推定することはよくやられてきましたが、「在のみデータ」から推定するのは難しかった。
そこで提案されたのが最大エントロピーモデル(Maxentモデル)です。
詳しい仕組みは割愛しますが、これを使うことで、在のみデータから生きものの分布を精度よく推定することができるようになりました。
ただここで、iNaturalistのデータの持つもうひとつの特徴を考えましょう。
それは、「調査努力量が偏る」ということです。
「調査努力量」とは、「どのくらいの手間をかけて調べたか」ということです。
一斉調査ならある程度均一にできますが、iNaturalistではそうはいきません。
どうしても、みんながよく通る道や行きやすい場所の近くに観察が集中します。
そしてMaxentモデルは、調査努力量の偏りに弱いことが指摘されています。
そういう場合は、似た性質を持つ他の生きもののデータをバックグラウンドとして用いることで、
調査努力量の偏りを制御する方法があります。
こういう性質のデータを解析する手法も幾つか提案されていますので、状況に応じて活用していくと良いでしょう。
市民が参加して集めたデータをどう活用するかも、これからの生態学者の大事な仕事ではないか、と思います。
[iNaturalistのコミュニケーションへの応用]
・・・と、ここまで考えて気づきました。
市民が取ったデータをどう解析するか?も大事だけど、
iNaturalistが真価を発揮するのは、そのもっと前の段階なんじゃないか、と。
調査や研究の前に、大事なことがあります。それは「問題設定」です。
これをちゃんとやっておかないと、何を目的にやるのかいまひとつ納得いかないままになります。
そしてそれを設定するのに重要なのが「コミュニケーション」です。
富田(2018)が佐賀県のとある湿地を例に、コミュニケーションの過程を説明してくれています。
生態系とどう付き合っていくかを考えるとき、そこには多くの人が顔を出します。
地域住民、行政の担当者、研究者、などなど。
そしてそれぞれの立場によって、何が問題かという認識がズレてしまいがちです。
例の湿地では、川沿いの水田だったところにスポーツ施設を建設する案がある中、
「自然再生事業」をやると言い出したのは河川事務所、つまり行政でした。
そこから地域住民や専門家も参加して定期的に検討会を開くようになりましたが、
自然再生という問題設定は、住民にとっては唐突なものだったようです。「自然なんていっぱいあるじゃないか」と。
そこで、住民から湿地での暮らしや自然の様子を「聴く」ことで、住民がどういう意識を持っているかを知ろうとした。
これにより、行政側は「自然再生事業が住民にとってどんな意味を持ちうるのか」を、住民側は「先祖伝来の土地に自然再生事業がどう影響するのか」を、それぞれ考えることができた、というのです。
それから、行政は問題設定を「水辺と人間のかかわりの場の再生」に変え、住民側にも「子どもたちが水辺を体験する場として整備する」という意識が生まれたそうです。
問題設定のズレを無くすのに重要だったのは、「聴く」というプロセスでした。
ここにiNaturalistのデータがあるとどうなるか。
この「聴く」という過程において「ここにこんなのがいた」というのが共有しやすくなります。
そうするとそれがきっかけになって、様々な記憶が紐づいて出てくるかもしれない。
また、スマホ片手に自分たちで改めて探しにいくことで、忘れていたことや新たな発見に気づくかもしれない。
地図上に表示すれば、子どもたちや地域外の人たちにも、地域の現状を説明しやすくなる。
「聴く」というプロセスを支援することで、問題設定をより進められるのではないでしょうか。
今後、生態系の保全や管理の現場で、iNaturalistがどういう役割を演じられるか、注目していきたいところです。
[参考文献]
鷲谷いづみ・宮下直・西廣淳・角谷拓『保全生態学の手法』東京大学出版会(2010)
富田涼都『生物多様性の保全をめぐる科学技術コミュニケーションのあり方』日本生態学会誌 68: 211-222 (2018)
仏像と堕落
最近、高遠で石仏を見る機会が多かったので、その中で思ったこと。
仏像の歴史をたどってみれば、インドで誕生した初期の仏教では仏像を拝んだりしてなかった。
「やっぱ像にした方がパッと見でわかりやすくね?」ということでせっせと作り始めた。
それまでの仏教者からすれば、「不敬」や「堕落」と映ったでしょう。
「最近の若いもんは」というセリフは、古代からあったそうです。
自分たちがやってきたやり方と違えば、それは「改悪」や「堕落」と映る。
論文読んでて知らない単語をネットで検索するようになれば、「最近の学生は辞書を引かなくなった」と嘆く。
撮った写真を判別して生きものの種類がわかるアプリを使えば、「図鑑で調べなくなる」と眉をひそめる。
大学の講義やゼミ中にわからないことをスマホで調べていると「講義中にスマホを触るな」とか言い出す。
(学生も学生で、研究室ではスマホでLINEとYouTubeばっか見てる奴が、
ゼミになると急にかしこまってスマホもパソコンも使わなくなる。驚くほど律儀だ)
そんな人に言いたいことはあるが、言ってもあんま意味無いんですよねー。
地動説がメジャーになったのは、地動説論者が天動説論者を論破したからではなく、
単に天動説を信奉する古い世代が死んだから、ということらしい。
常識が変わるためには、人そのものが入れ替わらなきゃいけない。
既成事実を作ってそれを当たり前と捉える層を増やしていけば、
時期が来てその層が主流になった時に自然とパラダイムシフトは起きるんだと思います。
講義のこと
どうも、「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。
先週は急遽、郷里でもある福井県に出張することになりました。
福井県立大学の先生が、県内の現場で外来雑草の分布を調査しているのでその調査に加わり空撮画像を撮ってほしい、と言ってきたためです。
海にほど近い現場だったので風を読みながらではありましたが、何とか滞在中に目的の範囲の空撮画像を撮り終えました。
その一週間の滞在中に先生から突然、県立大学でゲスト講師として講義で喋ってほしい、と頼まれました。
思いがけない長尺を持て余し、
とりあえず「普段どんな研究をしているか」「福井へは何をしに帰ってきたのか」から始め、
そこから「なぜこんな研究をしようと思ったか」「この研究の先に何を見据えているのか」を話しました。
私は京都での大学時代、水田での肥料分の動きを研究したり、ミカン園での病害虫の発生を調査したりしていました。
その過程でコメ農家やミカン農家と繋がって、現場でたくさんのヒントをいただきましたし、
調査を通してわかったこと、考えたことは出来るだけ伝えることにしていました。
今、ドローンや光合成測定装置で野外の植物群落の評価に取り組んでいるのは、
その後の生育を推定することで管理に役立てるという道筋をつけるためです。
全て、現場の問題の解決を最終目標とする研究です。
「当事者の顔が浮かばない仕事はしない」というのが、私のモットーです。
講義の最後、私はこうブチ上げました。
「生態学をはじめ、環境学、社会学、歴史学などといったフィールドワークを伴う分野の研究は、もはやプロの研究者だけのものではない。
スマホのような情報端末が普及し、誰でも日時と位置情報が付随した記録をアップロードし、共有できる時代になった。
これからは市民と研究者が協同して地域の問題解決に取り組む時代だ。
みなさんの中で将来、プロの研究者になる人は少数で、その他の人は会社や役所に入ったり、自分で事業をやったりするだろう。
だけど、どんな立場になっても、研究はできるのだ。自分なりの課題を設定し検証する力があれば。
だから、ぜひ身の回りを探検して、自分の暮らす地域や社会について理解を深めてほしい。
その中で疑問に思うことがあったら、どんな些細なことやマニアックなことでもいいから、
自ら調べ、仮説を立て、行動するということをやってみてほしい」
自分は研究者として、市民とプロジェクトを立ち上げ、データの取得や解析の面で指導的な役割を担いたい。
論文執筆や学会発表は、あくまで他の現場に横展開するための参考という位置付けに止めておきたいのです。それが目的ではないのです。
後になって、自分の講義を録音するのを忘れていたのに気がついて、後悔しました。
別に自分の話に酔ってではありません。今後に向けて話の内容をより吟味する材料にすべきだったと思ったからです。
こういうところがまだ初心者ですが、与えられた枠の中で自分の体験や考え方をいつでも話せるように備えておかなくてはいけませんね。
「茶碗の曲線」とリモートセンシング
皆さんご機嫌いかがでしょうか。またしても更新が空いてしまいました。
気がつけばすっかり秋。私が信州に来てから一年が経ちました。
皆さんのおかげで何とか干からびずに生きております。ありがとうございます。
ところで先日、中谷宇吉郎の随筆「茶碗の曲線 ――茶道精進の或る友人に――」を読んでみました。
中谷宇吉郎の弟は、人類学を研究するなかで、土器の形状を定量化して分類に役立てようと試みました。
土器の形状、より具体的には湾曲率を測り、そこにパターンを見出すことで、時代や地域ごとの特徴を定量的に表現しようとしたのです。
ところが実際にやってみると「どのくらい精密に測れば傾向がつかめるのか」が案外難しい問題として立ちはだかります。
古い土器にはどうしても歪みや損傷があるので、工業的に作られた後世の焼きものとは違ってひとつとして同じものは無い。かと言って精密に測りすぎると誤差が大きくなってしまい、却って傾向が見えにくくなってしまう。
結局その弟は研究が行き詰まったまま病気で亡くなってしまったそうです。
リモートセンシングで画像相手の解析をしていても、似たような問題に突き当たることがあります。
近年のドローンやカメラの発展は凄まじく、私が使用しているドローンは上空50mからでも1ピクセルが約1cmという解像度を誇ります。植物の葉っぱの形までよく見えます。
私の研究はその画像から目的とする雑草の有無やその量を推定しようというわけですが、あまり細かく分けても影や画像のノイズの影響が強く出てしまって、バラツキが大きくなって推定がうまくいきません。
実際に雑草を管理する時のことを考えても、雑草の生育は数十cm〜1mのメッシュを単位として把握できれば十分でしょう(雑草そのもののサイズにもよりますが)。
私は地元の福井県にいた頃、仕事の傍ら陶芸を学んでいました。
越前の技法は輪積みが主流で、紐状の粘土を輪っか状に積んでいくことで上に向かって器を形づくっていきます。高さごとに成形していくという点では、現代の3Dプリンターに近いやり方と言えるかもしれません。
次にどのくらいの長さの粘度紐を積むか、というときは当然、次の段の器の直径をどのくらいにするか、ということを意識しなくてはなりません。
口を広げるのか、すぼめるのか、あるいはそのままの口径で真っ直ぐ立ち上げるのか。また、粘土紐の太さは、器の厚さに繋がってきます。
積む段の高さを細かく分け、一段にちょっとずつ積むようにすれば狙い通りの形ができるかというとそうではありません。
そもそも粘土の紐を際限なく、タコ糸のように細くできるはずはありません。大きな甕を作るときは腕ぐらいの太さの、手のひらに乗る茶碗を作るときは指くらいの太さの紐を積んで、丁寧に撫でつけながら積み上げていきます。
全体のバランスを意識した上で細部をどうするかを考えないことには、結局その器は歪なものになってしまうでしょう。
中谷宇吉郎は言います。「茶碗の味を愛惜する心は、科学には無縁の話としておいた方がよいように思われる」と。
茶碗でお茶を飲んでいると、その手触りや口当たりや熱の伝わり方に注意がいきます。この掌の上の、粘土鉱物が熱で硬化した物体の形状や質感を捉えるには、どのスケールで感じ取れば良いか。
その模索の中で、感覚が調整されていきます。チューニングのようなものです。
日常生活の中でどういう仕事をしているか、例えば、研究室で精密な実験をしているか、力仕事をしているか、人と話をしているか、文字や数字を操っているかによって、感覚のスケールは変わってきます。
たまには普段と違うことをして、違うスケール感の世界に遊ぶというのも面白いし、科学によってそのスケールを規定されてしまうのは惜しい気がします。
逆に、一概に規定しえないからこそ、今日でも人は茶碗に魅せられるのでしょう。
オープンエコロジー宣言!
どうも、「岩本愁猴のスナックあぜみち」です。
随分ご無沙汰をいたしておりました。緑の滴るような良い季節になりましたね。
年度も跨ぎましたし、皆さんもこの間にいろいろあったかと思います。
私も最近考えていることを書いてみますね。
先月、日本雑草学会で発表するため東京農工大学に行ってきました。
初めてお会いする方もいましたが、京大時代にお世話になった先生やら、仕事で知り合った先生やら、以前勤めていた会社の方も来ていて、軽くはわわしておりました。
私の研究テーマについては少し前のブログでも触れましたが、空撮画像から地上の植生の情報が得られるようになっています。
例えば、機械学習を使って地面と植物はもちろん、大まかな植物の種類もコンピューターが自動で判別できるようになりました。
また、地表に植物が生えていると、そこからの反射光は赤や青の光が少なく、緑や赤外線が多くなる。この特性を利用し、反射光の波長ごとの強さから、地表の植物の茂りぐあいや葉緑素の量を推定できるのです。
こうした技術は農業や林業の分野で、作物や樹木の生育を測るために発達してきました。それを雑草群落に活用することで、雑草の成長や種どうしの競合を評価しようというのが、私のひそかな野望、もとい研究方針です。
生態学は昔も今も、フィールドを歩いて地点ごとにサンプルや情報を収集するのが基本です。
そこで得られるのは、地点ごとのいわば「点の情報」です。
空撮画像なら、点でなく「面の情報」が手に入る。
植物の分布や面積あたりの生育量などが広範囲に得られます。
とはいえ、空撮画像はお高い・・・
衛星画像は高額なうえ、撮影頻度によっては自分が欲しいタイミングの画像がないことも。
逆にドローンなら気象条件や周囲の安全さえクリアすればいつでも飛ばせますが、そんなに広範囲を一度に撮影できるわけじゃない。ある程度マトを絞らないと。
だから、歩いて得た「点の情報」をもとにして、必要に応じてドローンを飛ばして「面の情報」を得るようにすれば、効率よく対象を捉えられる。
みんなが歩いて得た「点」と空撮で得た「面」を活用して、地域の生態系や景観について考える。
私はこの手法を「オープンエコロジー」と名付けました。
「オープン」という語には、主に二つの意味を込めています。
ひとつは、一般の人たちに開かれているということ。
「オープンデータ」や「オープンイノベーション」と言う時の「オープン」と同じです。
情報が公開・共有され、誰でも利用できる。新しい情報も随時追加できる。
個々人がデータを可能な限り公開し、協力してデータを充実させていく。
多くの人が参加することで、従来の専門分野の枠に囚われない調査や分析が可能になります。
もうひとつは、情報が点だけでなくひと続きの面にもなっていること。
こちらは「オープンワールド」の「オープン」だと思って下さい。
「オープンワールド」とは、「龍が如く」や「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」などのゲームに見られる、継ぎ目が無く自由に動き回れるフィールドのことです。
面的なデータから、動植物の生態や人間の活動を見ることを目指します。
更に、「ポケモンGO」のようにマップ上に自分の位置をリアルタイムで表示できれば、その後のフィールドワークにも活かせるでしょう。
私がたびたび紹介している「iNaturalist」というアプリは、この「オープンエコロジー」の考え方によくマッチします。このアプリもどんどん使いやすくなっています。これまでは基本的に英語だったけど、最近日本語になったし、学名じゃなく和名で登録できる種類も増えてきたし。
現在、このアプリを活用した自然観察イベントも企画しております。
詳細は追ってお知らせしますね。