作り手と使い手

先日実家に帰った折,玄関先の青い花瓶に,薔薇の花が生けてあった.
花瓶はかつて私が陶芸を趣味としていた時に作ったもので,釉が垂れたところが泡立って表面がぶつぶつとしている.
そこへ,母が庭先から赤い薔薇の花を切り取ってきて,生けてあったのである.
深い青色に薔薇の葉の緑と花の赤が良く合い,形も底が丸くどっしりとしていて,全体として安定していた.
作り手として,作ったものがこのような形で報われていることに有り難みを感じるとともに,その使い手である母に感謝したいと思った.
器それ自体にはこれといって美点は無く,単独ではとても鑑賞に堪えるものではない.
使い手がいて初めて花が生けられ,鑑賞の対象としての価値を持つのである.
元来花器とはそういうもので,それ自体が骨董や文化財としての価値を持つものはあるだろうが,あくまで主役は花であり,器はその基礎に過ぎない.
 
作り手の仕事は,主役たる使い手がいて初めて,価値を持つようになる.これは何も花器に限った話ではない.
研究者が論文を書くのは,自分の勉強の成果を同業諸氏の批評に曝すとともに,各々の仕事に幾分か参考になれば幸いと思うからである.
だとすれば,論文は読まれて初めて価値を持つのである.直ちに注目される必要は無いにしても,将来の誰かの仕事の役に立つことを希望するから書くのである.
同様に,研究を通して得られる知見やシステムにしても,普及を通して現場で使われることによって価値を持つ.
仕事の方向性を見失ったら,必ずこの原点に立ち返らなくてはいけない.
 
その上で,作り手と使い手の距離が近いことは,作ることと使うことの双方の価値を高める上で大きなメリットになる.
私がかつて信州にいた頃に参加した2019年の「伊那谷グランシェフの会」では,農家と料理人が共同で料理を作り,客をもてなした.
この時,料理人は農家から見れば使い手だが,客から見れば作り手となる.
価値が受け渡されていく様子が目の前で展開され,更なる価値が創出される可能性を感じた.
日常の流通では,一連のバリューチェーンの中にもっと多くの作り手と使い手が携わり,価値が付与されていく.
上流と下流の相互理解が活発になれば,価値はより深まっていくに違いない.
 
私が勤める福井県は食材に恵まれ,豊かな食文化を持ち,工芸の伝統も多く受け継がれている.
作り手と使い手の距離を近づけ高めあう状況を整えることは,価値を最速で深めていく鍵になる,と思ったりした.