農業とは殺すことと見つけたり

普段農業に触れる機会の無い人が農村に行ったり,農作業を体験したりすると,大体お決まりの台詞が出てくる.
「自然の中で生きものを育てるって,良いですね」
感動するのは結構だが,僕はこんな台詞を聞くたびに違和感を覚える.
 
 
まず「自然」についてだが,農地は決して手つかずの自然ではない.
農地が人間が開墾する前から農地であったはずはないし,人間が農業を止めれば途端に荒れ始める.
ただ,農地の条件にうまく適応できている生物種が多数いる.それらは,農地における適度な撹乱を必要としている.
その撹乱にどれだけの努力が払われているかということは,外部からは見えにくい.
そのため,自然と人為を二項対立させる考え方のもと,農地を安易に自然に振り分けてしまうのである.
自然と人為の間のスペクトラムを知らなければ,この辛苦と豊穣は捉えられない.
 
 
また,農作業を通しでやってみれば,必ず「殺す」ことになる.
例えば,死神というと,どんな姿を思い浮かべるだろうか.
骸骨が黒いフードを被り,手に大鎌を持つ,というのが紋切り型のイメージだろう.
問題は,人の命を取るのになぜ鎌なのか,ということだ.
人が集団で命を奪い合う戦場で,鎌が主力武器として使われた例を聞いたことがない.
鎌でもうまくやれば人を殺せるだろうが,人の命を奪う道具としては,剣や槍や弓矢の方がよほど適しているだろう.
それでも西洋で死神を表す記号として鎌が採用されたということは,武器である剣や槍や弓矢よりも農具である鎌の方が,死のイメージに近かったということになる.
農業では,元からいた動植物を殺して農地を確保し,栽培が始まってからは雑草や害虫を駆除し,収穫時には鎌などを用いて切り取る.
生きものを育てるということは,その途中において対象に害をなすものを殺し,その最後において対象そのものを殺すことだ.
西洋では,農耕の神クロノスは時の神でもあった.また,時間の擬人化である時の翁は,大鎌を持っていた.
時に従って死をもたらすことこそが農耕であるとするなら,人もまた時に従って老い,最後には鎌にかかって死ぬというのが,農耕民にはイメージしやすかったのかもしれない.
 
 
人間が糧を得るためには,土地や生物に対して,時に暴力的に働きかけなくてはならない.
都市的な生活をしていると,どうもその感覚がうすぼんやりしがちだ.