伊藤計劃没後10年: モデルと物語
今年は作家・伊藤計劃の没後10年の節目です.
デビューしてわずか2年,34歳の若さでした.
前回の記事で引用した『屍者の帝国』は,伊藤計劃の絶筆を円城塔が書き継いだものです.
これも含めて,伊藤計劃が作家としての短いキャリアの中で遺した作品は,
それまでの体制や秩序の盲点を突く,という内容が多いです.
既存のモデルが否定されたとき,人は新しいモデルを選びとれるか,それともただ混沌や虚無に呑み込まれるしかないのか.
一貫して一元描写で語られる物語の主人公や周囲の人物たちは,困惑し,苦悶し,絶望し,決意し,行動します.
その物語は,寒気がするようなリアルさを持っています.
ところで,イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』の中で,
人類史には3つの大きな革命があった,と指摘しています.
「認知革命」と「農業革命」と「科学革命」です.
このうちの「認知革命」は,人類に「物語を語る力」を与えました.
人類の特徴としてしばしば言語が挙げられますが,
人類以外の動物でも言語によって情報伝達を行い,それによって集団の生存率を高めているものがあります.
では,人類の言語の特徴とは何か,というと,「虚構を語ること」が可能になっているのです.
人類は「実体のないものを認知すること」ができます.
神もそうです.会社もそうです.市場もそうです.法律もそうです.貨幣もそうです.
これらに実体はありません.
「赤信号みんなで渡れば怖くない」的にみんなで一斉に否定すれば,明日にでも無くなってしまうものばかりです.
実際,札束や株券は数時間でただの紙切れになることがあるし(株券はもう電子化されてるけど),それによって多くの人が食うのに困ったり首を括ったりするのです.
神という物語に固執する人たちは,それとは異なるモデルを提示した人たちを異端者として非難しました.
ガリレオやダーウィンといった人たちも,教義に反しているとして追及を受けました.
ハラリは,500年前の「科学革命」は人類が自らの無知を積極的に認めるところから始まった,としています.
既存の物語を根本から見直し,経験とデータに基づいてモデルを構築し直すことを始めたら,これまでにない理解や応用が可能になった.
デカルトの方法的懐疑は,その最たる例です.
このことが後の「産業革命」にも繋がっていきます.
今日,科学というモデル体系はますますその領分を広げ,人間の認知や心理にまで及ぼうとしています.
かく言う私も,研究の中で機械学習を使うことがある.
シンプルなアルゴリズムなら理解できるのですが,変数が増えたりして複雑になると理解が追いつかない.
ブラックボックスと言ってもいいモデルが出来上がってしまう.
かつてこのブログで紹介した中谷宇吉郎の随筆『茶碗の曲線』に出てくる,彼の弟が果たせなかった土器の分類モデルの構築も,
3Dスキャナーとそこそこ速いコンピューターがあれば,案外できちゃうんじゃないか・・・そんな気がします.
それでも人は,既存のモデルが扱いきれないものを様々な物語で語ることができる.
なればこそ,詩を詠む心も茶碗を愛惜する心も,無くなったりはしないでしょう.
人が謙虚に無知を認め,五感を皿のようにして,想像力を膨らませる限り.
うーん,ちょっと考えすぎかな.
でも,歴史を学べば学ぶほど,今の社会が拠って立つところのモデルが崩れ去ったとき,
社会が,自分がどうなってしまうのか,という疑問が湧いてくるんですよね.
もちろん答えなんてないし,その時が来たら自分の力だけではどうにもならない部分も多いだろうし.
歴史が教えてくれるのは,人の「物語を生み出す力の偉大さ」なのかも知れません.